そんなもんなバレンタイン

二月十ニ日だ。女は菓子作りに勤しみ、男はひやひやと送るイベントがもうすぐやってくる。
渋谷サビ丸は強奪戦のさなか、市販の板チョコレートを握りレジへ向かった。税込み百五円、良心的な安さ。それを三枚買ってスーパーマーケットを出ると茶とピンクの街が歓迎していた。あちこちハートが飾られ小さな恋の季節を演じている。
マフラーに首を埋めるとカシミアの布地が肌を撫でる。固くなった足はうまく動けなくて、はあ、と白い煙が昇るとやっと緊張が逃げる。
この時期、街にはアベックを殲滅する団体が現れるらしいが、幸運にも鉢合わせすることなく愛らしい並木道はときめきで賑やかだった。
忙しない喧騒でふとある少年の姿が滲む。
背伸びして、捻くれている、ずっと孤独を味わっていた高校生。命懸けで庇い、この何ヶ月間共に暮らしてきた。
慕っている相手は誰かと問われればその男だし確かに先にも後にも一番大切な存在である。でも好きや恋なのかどうか、はっきりするのをサビ丸は恐れていた。唐変木を炙って自覚したらこれまでの立場が崩れてしまいそうだったからだ。不満はゼロだが、もし変貌を遂げるのを望むならお庭番じゃなくなった時だと決めている。
浮かれている世界を尻目に居候の身で家へ帰る。ドアを潜ると主人の善透はジャージを羽織り、コンピューターを操っていた。カチカチとマウスのボタンをクリックする音が虚しく響き渡り部屋には負が渦巻いている。暖房は付けていないため極めて寒く加えて重い空気だった。
真剣なオーラにお邪魔しディスプレイをこっそり覗くと金にうるさい彼が株の取引に勤しんでいて、日常の風景がそこにはあった。
「ただいま戻りました!」
挨拶は華麗に無視。
「善透様ー、サビが帰りましたぞー」
めげずに呼び掛けると善透が面倒そうにこちらを見遣る。曇った眼鏡が鈍く光り凍てつく氷柱のようで、サビ丸の火を刺す。
「お風呂にするか、ご飯にするか?それとも俺の鉄拳か?ああ、もちろんお風呂とご飯はお前が用意して殴るのは俺のストレス発散のためだけどな」
株で損害を被ったのか、どん底に不機嫌だった。
優しくしてくれなんて頼んではいないがこうも荒んでいるとさすがに涙が出てくる。だってお庭番だもん。
「理不尽ですよ、善透様……まあとりあえず先に食事にしましょうか」
肩を落としたままキッチンで晩御飯の準備を始める前に塊を冷蔵庫へそっとしまった。
エプロンと気合いをかけてまな板を置くと平らのプラスチックは傷を携えていた。我が家の包丁はサディスティックだ。
メニューはいきあたりばったり、善透へおいしいを提供するべく努力を怠らないが黙々とやるのも寂しいためサビ丸は雑談を切り出す。
「そろそろバレンタインですねー」
知っていると思うが、善透はいかにも興味なさそうにふうんと呟いた。またまた、ごまかしちゃって、なんてツッコミはおいやって。
「サビも善透様のためにお手製絶品ブラウニーを作りますから」
簡単であるし、万人に親しまれている。
「ふうん。気持ちわりーな」
「はい、楽しみにしててくださいね!」
レッツポジティブシンキング。窓の外から茜のシャワーが降り注いでいて憂いを流す。何か聞こえたが、サビ丸は構わず大根を洗っていたのだった。


二月十四日。善透と一緒に登校する。
基本的にチャリ通の彼だったが、最近サビ丸に合わせて自転車を押して歩いたり荷台へ乗ってサビ丸が漕ぐようになっていた。この日は後者である。善透のためならサビ丸は体力を使うことを厭わない。だからペダルを踏み込む。ぐいぐいと。
以前、善透はサビ丸をアッシーくんと称した。アッシーとは何かの恐竜かと尋ねたら便利な人をそう名付けると教わったのだが、サビ丸にはおそらく彼の役に立ててるとしか分からなかった。否、務めを果たせていると信じている。
風で髪がたなびく。さらさらと揺れるそれが鬱陶しくもあり、軽く頭を振った。途端、遠慮がちに腰辺りのシャツを掴んでいた善透の手がサビ丸の腹に移る。こうやって縋られるのは珍しくなく危険から主を守るために無茶をするお庭番の体へ抱き着くことがしばしばあった。不安にさせてしまったかという申し訳なさと逆に弾んだ思いが交差する。熱い掌が腹を弄られると居た堪れなくてむず痒い高揚がサビ丸の胃を満たすので、かくてしきりと喜びを噛み締めるのはサビ丸の秘密である。
懐かしみながら過去を回顧しているとようやく目当ての大きな建物が現れる。
自転車置き場に寄ってから昇降口に着き下駄箱を開ける。そこには赤で包装された四角い物が忍の如くサビ丸を待っていた。怖々と隅を摘んでささやかな輝きを空に翳す。
「ななななな何か入っていますぞ、善透様!もしや刺客からの四角い仕掛けかもしれません!まさか爆弾なんてことが……あ、危ないです!早く離れてください!」
「……へー、ほお、ああ、うん、そう」
サビ丸の焦りを余所に善透がいい加減な相槌を打って呆れていた。疑いは萎んだが、ん、と唸って善透を窺う。
「善透様?何か……怒ってます?」
「気のせいだろ」
さいですか。念のため善透の下駄箱を調べると同じく赤い袋が入っていて甘い匂いが鼻につきなぜかサビ丸は苛々した。
「爆弾ですかね?妖精ですかね?バレンタインですかね?」
「……お前、怒ってる?」
「気のせいです」
唇を尖らせる。もやもやしてむかつく。
サビ丸へのプレゼントもバレンタインだと悟っているが善透のもそうであると認めたらこんがらがったむしゃくしゃが泥沼化した。
「名前はないな、うん」
サビ丸がいじけるより、既に善透が袋を鞄へ詰めていた。これで本日の三時のおやつは安泰だ。文明堂のカステラだって不要である。それはさておき、言動を怪訝に感じてサビ丸が首を傾げたら善透は眉を顰めた。彼のもくろみはたまにミステリアスのオブラートでくるまっていてサビ丸にはいかにしても予測不可能だ。
サビ丸が経緯の傍観をこなして、善透が睫毛を伏せ淡い色を露呈する。
「あのな、サビ丸。俺は相手が分かるやつからは貰わないことにしてんだよ」
「はあ。どうしてですか?」
「そりゃお返ししなきゃなんねーだろ。金もったいないじゃん」
「うわ、ないない尽くしですね……って、も、もしかして、サビのも受け取らないつもりですか!?」
「え……お前のバレンタイン?」
瞬きを反復する。範疇にありませんでしたと示すほどの態度で、サビ丸の顎に汗が伝う。
ルートに留まらず、悲しくなって俯くと水がぽたりと滴り靴を濡らした。
「……居候は」
止まる思考回路に地を這う声が澄んで、神に祈るようすかさず、見返りを求めません、と答える。
焚き付けた台詞はどちらだったのか、天秤にかけても判別はつかないが。
「なら、しょうがないから食べてやるよ」
やがて薄く善透が笑うとサビ丸は嬉しくなって、春の嵐がやってきた。


「藤、これ、いつも世話になってるから。やる」
訪問者は恥じらいながらかわいらしいラッピングで施されたプレゼントを善透へ贈る。
「ば、バレンタインとかじゃなくて、いや、少しは関係あるが、すす、す、好きとかじゃなく友達として、だ」
「おー、流行ってるよな。友チョコだったっけ?うん、ありがとな、綿貫」
天然たらしスマイルを喰らった綿貫は頬を染めそっぽを向いた。これがツンデレってやつかなどと解析している場合ではない。
女子からの菓子を沢山頂戴してアパートへ帰宅してゆっくりしていたら玄関のベルが鳴りサビ丸が出迎えたところ、隣りに住んでいるというより監視している綿貫がお裾分けしにきたと名目をつけてバレンタインの貢ぎ物を持ってきたのだ。サビ丸と綿貫は仲が悪いという次元ではなく善透を守る者、善透を狙う暗殺者として各々敵に属していたためやすやすと懐へ招くような事態は好ましくない。
されどそこまではまだいい。良くないけど許す。でも断じて受け取るのは駄目だった。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんかおかしくないですか?」
「何が?」
「善透様、さっき相手が分かったら貰わないって言ってましたけど」
「は?……まあ、言ったな」
「こやつからは貰うってどういう訳ですか!」
「いや、綿貫は友達だろ。何でお前が責めんの?」
その綿貫は善透とサビ丸へ交互に視線を投げて、はらはらとした模様で仲裁に入ろうとしていた。けれども二人の険悪なムードに宥めることも出来ずおろおろするのみだった。
「お前だってなあ、俺から見たら結構ひどいぞ、その気もないのにばんばんチョコ受け取って。しかも手渡ししてきた女子にありがとうございますって言うのも正直オッケーだって勘違いされるんじゃねーの。誤解されて困ることすんなよ」
「誤解されたら困りますよ、でもサビは善透様のおやつになるかなあって思ってて……別に好きだって告白された訳じゃないですし貰ったら感謝ぐらい言います!」
本当お前ってひどい奴だな、と善透が吐き捨てた。いくらでも宣言する。ひどいのは善透だ。知人からのバレンタインは拒むと確固たる意志があったくせに綿貫は特別だとする。特別はサビ丸だけだと優越感に浸っていたのに結局はその程度で、なんて馬鹿げていたのだろう。
燻った魂が沈んでいくうちにちぐはぐの欠片が残った。やはりおかしいと。
叱られるのは、何かが一致しない。偏屈な善透が妙に忠告するとは迷惑だからか、はたまた他の趣旨があるのか。
文句を垂れるサビ丸に泡を吹かせたかった、モテてたからうざったかった、脳で理由を羅列してもどれも当て嵌まらなくて、悩みまくって導き出した推論はサビ丸の都合が良いものになった。
睨み合って、数秒。唾を飲んで対峙した善透を仰ぐ。自意識過剰だと軽蔑されるかもしれない。
それも覚悟しているから、サビ丸は言わずにはいられなかった。
「あの、善透様、怒ってます?なんか、その、嫉妬してるって勘違いしそうになるんですけど……」
ずれた拍子にぴしりと亀裂が走る。周りの酸素が軋んだ、とサビ丸は後悔していると綿貫がわざとらしく咳をして、唖然としていた、熟れた林檎の善透がむすっとこう囁いた。
「お前の気のせいだろ」
「で、ですよね……?」
きっと美しい嘘だと誓えるぐらい穏やかなトーンだった。
サビ丸の胸が灼熱を従える。蕩けたチョコレートを醸し出されて、一方通行の恋にさよならを告げる。
なんだかんだ善透が好きで、すったもんだで善透もまあまあだったり。
そんなはずはなくても勝手にテレパシーを受信したサビ丸は邪な妄想で虜になったのだった。


友情は見返りを求めない。黒須ちゃん寝るより。一応両思い。




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