君の頬へ最後のキスを

天使マイケルたんが人間ニールと日常生活を送る話。ぴたてんみたいな内容っス。

ニールの生活が変わったのはつい最近のことだった。牧師として暮らしている以上、神や天使や悪魔は存在していると思っているし、主を尊ぶのは日常の一つに組み込まれている。ミサは毎週催すのは当然だ。だからといってこの目で彼らを確かめられるとは予想外だったわけで、ニールは煙草を吸ってすっかり定着しつつある風景をどこか遠く眺めていた。
テレビではブライダルの特番を放送していて、一人の男が呆とした様子で画面を見詰めている。視線の先にある映像は新郎と新婦が静かに口付けを交わしたり、教会の外でフラワーシャワーを降らせたり、なんともまあ羨ましい幸せでいっぱいだった。
それを男はひたすら傍観する。真剣に、でもちょっと悲しげに。彼が何を考えているのか推し量れないが、無だろうと有だろうとその男には関係ないということは間違いなかった。
「なあ、とりあえず晩飯食おうぜ」
白い煙が昇り、辺りは独特の臭いが充満する。ニコチン、タール、気体は百害をもたらし部屋を蝕む。黄色くなった壁は勲章に、灰皿はストレスの掃き溜めだ。健康なぞとっくに縁は切れている。
惨めなことにしばらく彼に無視されていたのだが、ややあってコマーシャルに入り、居候の男はやっとこちらを一瞥して面倒そうに溜め息を吐いた。彼の歪んだ頬が断りたいと物語っていて態度が果てしなく悪かった。ハイスクールに通っていた年齢のニールよりも。
「仕方ないな。コンビニまで買いに行ってくる」
「おう、行ってらっしゃい。……じゃねえ、普通そこは料理作るって言うもんだろ」
「天使だからって何でも出来ると思うほうがおかしいんだ」
男は肩を竦めてまたテレビへ向き直る。宣伝では、女優が口紅を妖しく塗りハスキーボイスで商品名を繰り返す。
ニールにとってはタイプっちゃあタイプの女優であるがマイケルはおそらく、いや、絶対興味ないくせに彼はテレビから離れない。
んなもん天使だからこそだろ、と文句を言いかけてニールはやはり止めてあげた。せめて魔法とか術とか驚異の力とか使えばいいのにどうしてやらないのか。天を仰ぎ主に問うが、生憎奇妙な電波は受信していないのでもちろん答えなど返ってこなかった。

彼と同居するきっかけは三日か四日前か、曖昧な記憶を掘り起こす。
雲が太陽を隠し光が遮られ鈍色が全てを占めた頃、ニールは窓際のソファーに座って瞼を閉じた。欠伸をして睡魔を招く。準備万端の体勢にうたた寝しようとしたのだが、固いソファーが安らぎを妨げ、ひどく不快で眠れやしない。そもそも前提条件として世間は三時のおやつに勤しんでいるこんな時間から寝ようとするのがニートに等しい。
このままじゃ駄目だ、自宅警備すらしてないとニールはすぐ眠るのを諦めた。すぐだからわずかだったはずなのに、ほんの数秒おさらばしていただけなのに、瞼を開け現実へ戻ってきたら、眩しいほどの、銀の雪が舞う世界で誰かがニールの近くに立っていた。
何だ、これ。何なんだ、これは。大事なことなので二回言う。
早速ニールは首を傾げて状況を整理する。
まず特記すべき案件その一、季節は春だ。環境汚染による異常気象でも訪れたのか、幻だ、夢だと判断して瞬きを何度か行っても雪を連れてさらさらした金髪に端整な顔、純白のナイトシャツを纏った何かはそこにいた。
じわじわと鼓動が早くなり、ぐにゃりとソファーが沈む。
不安が渦巻いて、ニールは自身へ疑いを投げかけた。
案件その二、こいつは、どちら様ですか。
誰かというぐらいだ、友人ではないし教会に来ている人でもない。
そういう覚えはゼロだが、中性的ではなくわりとハンサムであったから多分、直感で男だと確信を持った。
最後の案件は、どうしてこうなったということ。目的はいくつか羅列できる。不法侵入、泥棒、単語が脳を巡ってニールはごくりと唾を飲んだ。ハンサムでも犯罪はする。ロリータコンプレックスだってホモセクシュアルだっている。しかしまさか自分の身に及ぶとはと驚愕してしまうが、変質者なら刺激してはいけない。過激な行動に出る可能性は無限大で否めない。
かくして慎重に悩んで言葉を選んだ結果。
「……お前さん、誰?」
シンプルな問いは緊張に包まれていた。震える足は最高に冷えて痛みを訴える。
対して暖かいオーラを従えて、情熱に祝福された男は穏やかに笑ってこう述べた。
「僕は貴方を幸せにするために来たんだ」
多くの人は天使と呼んでる。男の囁きにニールはこめかみに伝う汗を拭うこともせず顎まで垂れていった。
彼はニールが敬うあの天使だとほざいている。仮に天使だとしても、興奮させないようニールは恐る恐る反芻する。
「て、天使……?」
力強く頷く。
「マイケルだ。よろしく、ニール」
マイケルと告げた男は右手を差し出した。人間と同じありふれた掌で、天使だと明かされてもにわかに信じられなくてニールは眉を顰めたが、床に散らばった雪だと思っていたものがその時初めて天使が持つ羽だと分かったら、無理矢理にでも納得せざるを得なくなったのだった。

「ニール、どうしたんだ?」
はっと気付くとマイケルが隣にいて心配そうにニールを窺っていた。
シャツの隙間から鎖骨が見え、潤んだ瞳が理性を奪い、肌がきめ細やかだと認められる無防備な距離に焦ってしまって、煙草の灰が落ちニールの膝を汚した。黒と白のゴミがばらばらと積もり、しくじったと舌打ちをする。
「何でもねえよ」
短くなった煙草を灰皿へ押しやってティッシュペーパーでスラックスを拭く。汚れは引き延ばされ、新たな汚れを生み出していく。くだらないことで振り回されるのはよしとしない、してはいけないのだ。嫌になって適当なところで止めると、マイケルが体を起こした。横目で見届けるとすたすたと歩いていってなぜかキッチンへ向かっていた。
ニールは賢者タイムに突入する。怒ったかもなと。
過去を顧みていたとはいえ、八つ当たりみたいになってしまったと反省していたら呑気な声がニールの元へ達する。
「何がいいんだ?」
「……はあ?」
突拍子に尋ねてきたマイケルはエプロンを翳す。
「ごはん。作ってやるから、リクエストは?」
気まぐれって厄介だ。さっきはあんなに煩わしそうだったのに。
ニールはよれた煙草を銜えジッポーで火を灯す。赤がちりちりと紙を燃やしてぼんやりとした意識を引き締める。
「お前さんが作ってくれるなら何でも嬉しいさ」
一口めはガスの味がしてまずいからふかすだけにして二口めから肺まで吸い込む。染み込んだ煙は結局徐々に怠惰を誘い、テーブルへ肘を付く。木製のそれはぎしりと軋み気丈に耐えた。
炎に急かされ煙草が尽きていく。
アルカロイドを求める頭蓋骨で囲まれた組織のとある機能に急かされ、葉を必要とする。悪循環の堂々巡りだ。
嗜好品を煙草やすめへ置き、キッチンに向き合う。久しぶりにやる気満々なマイケルはニールとの共用エプロンを着て袖をまくった。
「じゃあリコリスのパイにするか?」
「……さすがにそれは勘弁してくれ」
聞いただけで胃が拒否する。冒涜だ。タブーだ。はっきり言って毒だ。
リコリスは苦手で、きっとせっかくのパイが台無しになる。薬みたいで受け付けないし、ルートビアのほうがよっぽどましである。
簡単にサンドイッチでいいと妥協して、リモコンでテレビのチャンネルをブライダルから別にしたらバラエティーが蜂の巣をつついていた。
ちんぷんかんぷんの映像に胃もたれがピークになり、間もなくしてマイケルが根性なしと呟くと、水が流れる音が響いたのだった。




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