君の頬へ最後のキスを 六番目
ラブロマンスでもなければ壮大なファンタジーでもなかったがマイケルとの短くて濃密な同居はピリオドを打ちニールはまた味気ない一人暮らしを満喫していた。家事も前みたいに自分でやっていて、料理に関してはレパートリーが増えたぐらいだし、白いワイシャツが並んで干してあるのも快感になってきた。窓の縁すらピカピカで家事のエキスパートだと自負しても問題ないはずだ。
ありがたいことに彼がいなくても全部やれている。もっともそれが己の幸せかは別なのだが。
じりじりと照り付ける日光が熱を運び、軽い息を吐いて玉になった額の汗を手の甲で拭う。肌に付着しているべたっとした水分がきらきらと反射した。最近やけに暑くなってきたのを時が経ったのだと実感しながら生い茂る大木の下で聖書を膝に乗せてページをめくる。
そこには何度も読んだ神の御使い達の挿話が、活躍が記され、ニールとよく行動する女の子も顎に水滴をぶら下げて聖書を覗き込んで文字を追っている。
天使のいない季節は初夏に入ろうとしていてマイケルが消えた景色は世界に馴染んでしまっていた。明日も明後日も明々後日もこの状況が共とするならば段々気が滅入ってくる。
「ニール、元気ないね」
少女は眉尻を下げこちらを窺う。ふわふわしたブロンドがマイケルを連想させ、孤独がニールを襲う。さよならを告げられたあの日からぽっかり穴が開いたように物足りなくて仕方がなかった。
憂鬱は夜毎膨張し、確かに元気は出なかったので頷いて同意する。
「まあな。マイケルがいなくなったから少し寂しいんだよ」
瞼を伏せ過去を馳せると、マイケルとの生活がフラッシュバックした。
少しならどんなにマシか、実際は寂しいだけじゃなくて恋しいとニールは感じていた。かわいく怒ったり穏やかに笑うあの姿も落ち着く体温や美しい目鼻立ちも、中身から外見まで引っくるめて掛け替えのないものと理解している。だから、次があってやり直せるなら素直な気持ちを伝えたかった。もう出来ないことだけれども、彼の愛情に向き合いたかった。ことごとく身悶えしたくなるニールを余所にぱちぱちと瞬きを繰り返す少女は小首を傾げて疑問符を浮かべた。
「マイケル?マイケル……えっと、その……ねえ、ニール。マイケルって……?そんな子いたっけ?」
「はあ?マイケルだぞ?」
あんなに仲良くしていたのに、今更な言い草だ。
「えーっ、誰だっけ?ニールの友達?」
「あのなあ、この前仲直りしたかって聞いてきたのはお前さんだろ。ほら、金髪で青い目のハンサムな……って、おい、そんな顔しなさんなって」
「うーん。だってそう言われても知らないんだもん。どんな人かもっと具体的に教えてよ」
「……本当に覚えてないのか?」
「ハンサムなら覚えてるってば!」
純粋な表情で嘘を吐いてる模様はなく少女は真摯にニールを凝視していた。濁りを示さない眼球が憐れな男を捉える。
心臓がばくばくと脈打ち夜と朝が混った視界の色になって無様に口を開いたまま少女を眺めた。なぜ覚えていない、なぜ忘れていて、彼女は知らないのだと。思い出してもらおうと彼がいた証拠を探そうとするが、ニールの周りには確実な欠片もないことに気付く。強いて挙げればマイケルというその名前が響きとしてあるだけだ。どうなっているのかすぐに把握出来なくて混乱したが、しばらくして、少女が忘れてしまったのはなんとなくマイケルがいなくなったからだと悟る。きっとマイケルは少女の中にいた彼も連れ去ってしまったのであろう。
巣立ちをした鳥すら住み処を置いていくというのにマイケルの痕跡はニールの記憶にしか存在していない。
何とも頼りない証拠だ。証明なんて出来やしない。
ニールが情けなくも、そうかと呟いて聖書を閉じると一つの物語が終わった感覚があり、虚しさの余韻に浸った。
「真面目で、たまにちょっとやさぐれてて……でも安心できる天使みたいな奴のことさ」
「ふうん。大切な人だったの?」
「まあな」
曖昧ながらも肯定する。
これが恋、という物か。やっと好きだと禁忌の罪を自覚したら目頭が熱くなった。
――かなり遠回りしたけれど的を射る答えを掴んだような気がするし、マイケルのいる天上へ届くまで叫びたいくらいうしろめたさは消失していた。
「そんなに大切だった人がいなくなっちゃったら悲しいよね」
悲愴に満ちた少女の声がニールの脳を巡り、夏の香りが鼻孔を刺激するとはためくスカートの裾を押さえ、少女はポケットから何かを取り出す。
「落ち込まないで、ニール。はい、これで元気出して!」
溌剌な言葉と手にした白く長いものを差し出され、困惑しつつも少女と白を交互に見遣る。
「これは……」
「うん、見つけたの!鳥のかなって思ったんだけどね、鳥ってより大きいし、なんかさ、天使の羽にすごーく似てない?……私の宝物だよ」
彼女は屈折なく笑う。割れ物みたいに儚くたゆたうそれにニールは震えを殺してそっと触れた。柔らかくて、鳥にしては大きい羽。カラスより孔雀というほどだ。
その雪みたいに白い羽を何ヶ月か前に同じ物を見たことがあったニールはごくりと唾を飲む。
「……お前さん、これ、どこで見付けた?」
「教会に落ちてたよ。……ニール?どうしたの?変な顔してさ」
「いや……わりぃ、ちいっとばかし用事思い出した」
苦しい言い訳を吐いて、艶やかな髪を撫でてやる。
「用事?」
ますます不思議そうに頭を傾けた少女から羽を取りウインクを投げたら、ニールは重い腰を上げたのだった。
小鳥の囀りの賛美歌を浴びて教会の扉から入ると祭壇の前に跪いた、神の使者が祈りを捧げていた。神の使者、つまりは天使だと、初っ端から判明できたのはマイケルと出会った際に目撃した銀色の羽が舞っていたからだ。じっと立ち竦んでいると、その背から穢れのない翼が次第に抜け落ちていく。幻覚かと思ったけれど歯を食いしばってはっきりと現実だと真向かう。まもなくして翼がなくなり彼の形が人間にそっくりになってしまったら、なぜだかその光景が、欲望にまみれた道ならぬ恋を神や万物に許された気分になって、パンパンに腫れた緊張が萎んでいった。
差し込む西日が眩しく、ステンドグラスに囲まれた教会は静まり返っている。二人だけの空間は気抜けしていて、安堵をもたらす。
マイケル、とニールが囁くと教会内に木霊してひどく反響した。
「ニール……」
ふ、とマイケルが吹き出してニールを振り返る。
「珍しく必死だな」
そんなに切羽詰まった顔をしていたのかとぺたぺたと両手で顔面を点検するが、多分普段通りにハンサムなはずだと翻弄されるのを溜め息でかわす。
「誰かさんがいきなりいなくなったら必死にもなるさ」
「家出した息子を心配する父親の心境か?」
「捜索願出すとこだったぜ」
「それじゃあどうしてここに?」
ナイトシャツを纏った彼は起き上がり、ぽんと膝の埃を払う。わずかに離れていただけなのにマイケルの背丈が以前より高くなった気がしてニールはどきりとした。
息子というか、連絡がつかない恋人だな。
しっくりくる表現に満足して、ニールはぎこちなく少女から貰った羽を掲げて揺らす。
「あー、まあ?ひょんなとこからお前さんがいるって証拠、見付けたからな。マイケルこそどうしてここにいるんだ?」
「その、僕も……うん。見付けて欲しかったから、ここにいた」
マイケルの台詞にぎゅっと全身が鎖に巻かれ、甘い痺れと嬉しさがニールを侵し、脊髄を駆け抜けていく。ひしゃげた機械の如くぎくしゃくしながらニールはゆっくりと、逃げられないようマイケルの影まで歩み寄る。
「別に、主に言われたから戻ってきただけだからな?ニールが心配とかニールに会えなくて耐え切れなかったとか、そういうんじゃなくて、その……」
「ああ、分かってるさ」
あの剣はマイケル自身の迷いも断ち切ったのだろうか。真偽はともかくニールは最大限の笑みで彼を強く、きつく抱き締めた。こんなかわいい生き物を、好きな人を、マイケルを、決してもう離したりしないと誓って。そして何より彼と共にいられる喜びに約束を果たしてくれたマイケルと主に感謝を捧げる。
「……もうどこにも行くなよ。オレサマが、お前さんを幸せにしてやるから」
この上ない幸せが渦巻いて、愛しさを分かち合う。すっぽり収まったマイケルは案の定男の感触で、そのことにためらったりはしないけれど、マイケルが返してくれる腕の強さに、ニールはむせび泣くのを堪えたのだった。
お付き合い頂きまして本当にありがとうございました!
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