君の頬へ最後のキスを 五番目

「マイケルと仲直りした?」
ピンクの花をいじりながら少女はあどけない質問を浴びせた途端、空間が凍りついて思考回路が停止され、どこからか近付いてきた紫の蝶が二人の周りをかくかくと飛び鱗粉を振り撒くとやっとニールの意識が現実にやってくる。頸部に雫が滴り、何で知っているんだと一瞬うろたえて、でも彼女を煩わすのは申し訳ないので変にごまかそうとしたら結局口を吐いて出た応えは確認の台詞だった。
「マイケルから聞いたのか?」
「うん。喧嘩したって」
「……マイケルがそう言ったんならそうなんだろうな」
記憶を掘り返す。今朝も出掛けた際にマイケルから行ってらっしゃいの挨拶はあったが決してぎくしゃくしていないと言えば嘘になる。ニールとマイケルはなんとなくお互い距離を保ちつつ仲の悪くない知り合いレベルの均衡でいて、わざとらしい会話や行動に違和感を覚えるけれどしばらくはこのままでもいいかと投げ遣りな部分がありかえって安堵しているニールがいたのだった。
天使故、年齢不詳は前提としてニールはマイケルより大人のつもりで接していた。年下の家族、弟であると。彼を諭す兄の如く振る舞っていたから、関係を完全に壊してしまうことにニールは勇気が出なかった。マイケルの気持ちにイエスやノーできちんと示せなかった。それは彼にとても失礼なことなのだがマイケルとニールの立場を考えたら容易に感情を表す訳にはいかないのである。
そうしてなんだかもやもやとするのに辟易してる中、気流に乗って土の匂いが漂い地を這う掌が汚れているのを感知する。砂まみれの掌と異なってニールが眺める鮮やかな景色は単純明快に美しい。花を愛でる少女もその一つだ。沈黙が占め閑静な時間が増えていく。
ミサのあと暇を持て余した二人は花冠を作りたいと少女の希望で一面草と花が広がる平地へ来ていた。
学校で面白い人がいるとかそんな他愛のないお喋りに興じていたのが最初で、次第にニールの私生活へ踏み込んだ少女がマイケルとの話題を切り出した結果が冒頭である。
ニールは背伸びして草原に寝そべり雲の動きを観察した。千切れ雲はゆったりと彼方へ進んでいく。青の果ては無限でどこまで雲が行けるのか見当はつかず寂漠の空が地平線まで続いているだけだ。そんな風にのんびりとしていたら隣りに座った少女がニールのあやふやな態度に怒りを滲ませる。
「もう、はっきりしてよ!ニールは仲直りしたくないの?」
幼女に責められる二十代とはなんと情けないものか。
「あー、カリカリしなさんな。もちろんそんなこたあねえさ。でも俺だってどうしたらいいか分からないんだよ」
少女の胸元にあるリボンが、白いワンピースが陽射しを受けて輝いている。眩しくて目を細めると桃色とブレンドされ虹のような模様に変化した。その不思議な眩暈とうるさい小言を黙殺しているとやがて少女は天へ向けて人差し指を真っ直ぐにする。
「ねえ、ニール。知ってるよね?天使のミカエル様の話。聖書に書いてあったでしょ?誰かが悩んだりしてる時にミカエル様が優柔不断なのをばっさりと切ってくれるって。あの火の剣でね」
聖職に就いている者として当然心得ている。ミカエルは神に最も近いとされる天使で、火の剣には裁きの力があると。なぜ急にその話になったのか、ニールがきょとんとしていると彼女は五本の指を一直線に整えすっと腕を上げた。
「えいっ!」
そのまま手刀でニールの頭を叩く。不意打ちの、チョップと称する攻撃を成し遂げた少女はかわいらしく破顔し。
「これで仲直りできるでしょ?」
得意げにミカエルになりきってこう述べ、ニールは彼女の幼稚さと気遣いに苦笑し、やれやれと肩を竦めて降参してあげた。

晩飯を食べ終わり、そろそろ寝ようとしている時だった。
ナイトシャツに着替えたニールが間接照明を消しているとマイケルがベランダから部屋へ戻ってきて無愛想に、天界に帰る、と短く公言した。外国語を話されたみたいにすぐに飲み込めなくて首を捻る。
ややあってはあ、と生返事をしてニールは口をぽかんと開けたまま、マイケルを見詰めた。ステンドグラスに描かれた天使がそこにいて彼もまたニールを直視している。覇気がなく悲しげであるが、残酷なほど綺麗な瞳で。
「だから実家に帰らせてもらうって言ったんだ」
「……どこぞの嫁みたいなこと言うな。まあ、あのな、マイケル。あんま悩むなよ、この前のことなら俺は気にしてないぜ?」
ぽん、と頭を撫でてやると期待に反して頬を歪ませたマイケルが嘲る。
「随分ひどいんだな、貴方は」
しまったと後悔しても遅くその端正な顔は影を生んだ。
眠りについた太陽の代わりに頼りない月夜が満ち、しかれども暗雲が立ち込める雰囲気に胃が熱くなりじっとりと焦燥が蓄積されていく。マイケルの眼差しは沈んでいてニールの罪悪感が大きくなった。一世一代かもしれない告白を気にしてないなんて彼を侮辱しているも同然である。
薄情だよな、と反省してマイケルの頭にあてていた右手をうなじまで滑らせてから退かした。マイケルは悶々とした様子でナイトシャツの前を握り締め渋りつつも口を開く。
「ニールが言ったんだからな、僕の幸せが貴方の幸せだって。なら、僕の幸せは……僕が願ってるのは、僕がいなくてもニールが料理洗濯掃除、全部やれるようになることだ」
もともと出来ているがと野暮な切り返しは置いといて。
「だから帰るんだ。ニールのいない場所に」
マイケルが儚く笑うと仄暗い部屋に冷気が流れ込んできて肺まで浸透していく。
乾燥で切れた唇を舐めたら鉄の味が舌に染み込みまた体液の一部になる。血は循環するのになぜ人との別れは訪れ築いた関わりを遮られるのだろう。ただただやりきれなくてニールは歯噛みし、もどかしさをぐっと堪える。
「勝手にいなくなるのか?」
非難したい訳ではないのに口調は尖る。ニールの険のある物言いにぶっきら棒でも、ちゃんと伝えただろ、とマイケルは耳を貸してくれていたが、そういうことじゃなくてとすかさず否定する。
「行って欲しくないんだよ、分かってくれ。長いこと一人ったからお前さんがきて楽しかったし、いなくなったら寂しくなるさ」
「引っ越しみたいなものだろ。別にそれぐらい普通じゃないか」
「天使は引っ越ししないだろ?普通で片付けるな。……ったく」
髪をがしがしと掻いて苛立ちを抑える。他のことだったらはいそうですかと納得できるはずなのにニールは反発したくて仕方がなかった。許せない、許したくないとわがままが渦巻いていく。マイケルが平気だとしてもこちらはまだ覚悟していないしこれからもないと断言出来る。どうして嫌かなんて自問しなくても分かっている。認めたくないだけで、本当はずっとマイケルが愛おしいと感じていたのだと、家族として友としてそれ以上のものとして、何かの枠に嵌められないぐらい彼が大切なんだと時限爆弾が弾けたように思いが激しく溢れる。
「ニール。貴方といて楽しかった」
頬に軽い感触が、くすぐったいキスが贈られるとはにかんだマイケルが泣きそうになっていて、ニールの心臓は酸素が足りなくなる。
そんな顔するなと伝えたいのに扁桃腺が絡まって喉から言葉が出ない。マイケルの目に溜まっている我慢の涙が慰めの一言を言う気力をどんどん削っていった。
ニールが怯んでいる隙にマイケルは火の剣を翳しさよならを告げる。燃え盛る珠玉の炎はニールを光に包み春の嵐を起こす。縺れた四肢は彼に詰め寄れず、深い失意と相反する決意を纏ったマイケルはとうとう迷いを断ち切るその剣を振り落としたのだった。


チョップは日本発祥なんだろうか


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