君の頬へ最後のキスを 四番目

目覚まし時計が鳴っている。じりじりと。耳障りなベルがうるさくて手探りでそれを引き寄せアラームをオフにしまた惰眠を貪るが、難儀なことに疲労した脳がぼんやりと現実を拒否していた。
本日も教会へ行かなければならないけれど起きなきゃと思えば思うほど体はだるくなって縮こまる。
「ニール、起きろ!起きろって!」
夢うつつの中、何かがニールをゆさゆさと動かしながら叫ぶ。
容赦なく強引なのが辛くてあと五分だけと願いを告げることも出来ず、ニールは低く唸るしか出来なかった。
布団はぬくぬく。気候はぽかぽか。意識はうとうと。寝るのに最良の条件を揃っているこの状況はニールの覚醒を妨げるのに充分な要素であった。日曜日のだらける夫の如く無視して眠り続けていると、やすやすと断念したみたいで騒がしさがなくなる。これで安寧を得られると楽になったのだが。
「まったく……起きなきゃキスするからな、ばか」
秘密を打ち明けるようなただならぬ囁きが聞こえてきて唇に優しい刺激が広がった。
懐かしいような久しく感じていなかった柔らかさに、戸惑いと冷静さが交錯する。
やがて鳥がさえずり、ニールはうっすらと瞳を開けると、紅潮し固まったマイケルが目の前にいた。衝突した視線は情火を帯びていて名状しがたい恐れがニールを攻める。硬直した二人は平行線の時間を共有している。らしくない光景は瞼に焼き付いて離れなくて、先程キスをしたのは彼なのかとぐるぐるする思考を煮詰めたが、予想だにしない行為は一瞬だったからにわかに信じられず瞬きを繰り返した。
もちろんマイケルだろうその何かはどういうを経てキスをするに至ったのか、ニールには不可解で悟りたくもなかった。
マイケルは天使だ。神に使える者で清らかであるべきだ。無論、主は同性愛を禁じている。同性愛が蔓延したソドムとゴモラは滅ぼされた。聖書でそう習った。だから天使であるマイケルは禁忌を犯してはならないはずなのにどうして彼は男に、ニールにキスを与えたのか。無防備だったことに自省しつつもニールはマイケルを鋭く見詰めた。
「マイケル、俺は許可してないぜ」
「確かに許可はしてないな」
「じゃあお前さんは起きないからって普通キスにするのか?」
「……普通、それだけだったらしないさ」
顔を反らしたマイケルが小さく呟く。それがかわいくて、でもニールは憎かった。ニールを慕っていると遠回しに匂わせていること、改めて言えば好きとか恋だのそんな感情に天使である彼は惑わされてはいけないのだ。そして何よりマイケルに茨の道へ歩いて欲しくない。ニールがマイケルに好意を覚えても、マイケルは駄目なのだ。
「お前さんのほうが馬鹿だろ……忘れてやるから、今後一切そんなことするな」
上半身を起こして布団を退かす。温もりは去っていき、朝の涼しい空気がなだれ込んでくる。さっぱりとしたニールに比べてどんよりとしたマイケルは震えながらうなだれていたが、しばらくして厳しい表情でこちらを見据えると一気に腕を振り上げた。
「……ニールのっ、ニールのぶぁーーーっか!」
「ちょっ」
大声で暴走したマイケルにどすっと完璧な肘鉄を腹に見舞われ、痛みにうずくまる。配慮なんてなんのその、彼は満足げにふんと鼻を鳴らすと、すたすたと部屋を出ていってしまった。覚えておけよと悔し紛れに吐き出したがちかちかと視界が歪み、ヒットポイントを削られたニールは完膚なきまでに惨敗したのであった。

ご機嫌斜めの天使は家事をほとんどやらなくなりもっぱら毅然とベランダに佇むことが多くなった。
青天井を見上げ、宇宙からの交信を待っているように。
苛々が募ったニールの煙草の本数も増えていき、灰皿は常に山盛りだ。
やや一方的な喧嘩をしてから丸三日経過している。どうしたものかとニールはがしがしと頭を掻く。気まずいし、どうにかして仲直りをしたいとは思う。こんな状態をずっと維持する訳にもいかないだろう。けれどもニールは正しいことを言ったつもりである故、なかなか謝罪する機会も作れなかった。
仲直りしてやるかと偉そうにニールがソファーから立ち上がりベランダへ近寄るとそよ風が吹いていて髪や服を揺らした。
春は出会いと別れの季節。マイケルと出会った季節は今もこの国にあって未来へ通過していく。それはいとも簡単に終えてまた巡り合うのだ。来年の今に。訪れた春は快く己を受け入れてくれて、ニールは肺の底まで呼吸をした。それで存在を強調したから気配で気付きそうなものの、マイケルは振り向きもしない。仕方なしに浮かんだいくつかの選択肢の内、一先ず彼へ呼び掛けてみることにした。
「おーい、マイケル。俺は出掛けるぞー」
返事がない。ただの屍のようだ。諦めないで、とコマーシャルで女優が応援してたじゃないかと奮起を促し懲りもせずニールは喋り出した。
「マイケル、今日はデートだから遅くなるからなー」
「……僕はそんなこと聞いてないぞ」
むすっとした面でようやくマイケルはニールを見遣る。やっと話したか。ほっとしたら懸念が逃げていく。まず第一関門突破だ。もはや楽しんでいるところもあるが、ニールは慎重に、かつ大胆に胸を張った。
「そりゃ言ってないからな」
「何で言わなかった?」
「誰かさんがいじけてたからだろ」
難癖をつけるとマイケルはもじもじし出して指を弄ぶ。様子を窺うと彼は意を決したように言葉を紡いだ。
「好きな人、いたんだな」
「はあ?」
「デート、するんだろ?」
好きな人ではないしデートは嘘だが一応性別的には女の子との予定はあるので首を縦に振った。
「まあな。かわいい女の子だ。花冠もプレゼントしてくれるしな」
「ロリコンだったのか……」
「おいおい、冗談だっての!」
名誉毀損罪で訴えるぞなんて冷や汗をかきながら突っ込むとマイケルはまだ怪しげにニールを観察する。身構えると、彼は不意に溜め息を漏らした。呆れとかそういった類ではなく緊張がほぐれたようで、ともかく誤解している訳じゃないらしい。
筆舌に尽くし難い顔だけれどマイケルは落ち着いていたから、ニールは次の言動を待機していると。
「怒ってないのか?」
また質問だった。からかってやろうとにやついてみる。
「貞操の危機は感じたけどな。怒ってはないさ」
「断じて感じなくていい。そういう自意識過剰はやめてくれ」
マイケルは眉根を寄せて抗議する。それに答えるように手を大袈裟に広げ、友好的な心を露わにする。
「天使ってのは特別に同性愛を認められてるのか?じゃないなら俺は、マイケルが主の教えに背くようなことをして欲しくないんだよ」
「……はぐらかされてる気がする」
「そうか?まあ、とりあえずだな。俺はお前さんが幸せなら俺も幸せなんだよ。おう、オレサマはいいことを言うなあ」
「はぐらかされてる気がするんだが?」
疑い深い。さりとて多少ははぐらかしてるとは言えずうやむやにニールは頬を緩めた。
そうしてるとマイケルにきつく睨まれたので、肩を竦めて自意識過剰だろと嘆く真似をしたのだった。




TOP