オーガストが別人。


素直になれない


夜の自由時間、本当なら今頃セシルとチェスを楽しんでいるはずだった。約束もしていた。楽しみにしていた。
反して、マイケルは一人、林の中を歩いている。どうしてこうなったのか、説明するのは容易だ。そのことに気付いたのは夕方。肌身離さず持っていた固い感触がポケットから消えていた。消えた物、密会へ繋がる分厚い閉ざされた扉を開ける鍵を。ニールから渡された大事な道具だ。無い、と膨らむ焦りを抑え部屋やら衣服やら教室やら確かめてみたが苦労は無駄になった。
こうしてマイケルは昨夜から経験した行動の道のりを辿っているのである。
無限の残酷な現実に対面しなければ彼の好意が報われない。
沈んだ心を引き摺り、足を早めた。枯れ葉を踏む音以外に辺りは深閑している。
上着も羽織らず外に出たため体は冷え切って強張っている。代わりに目だけは忙しなく左右へ移動させていた。
空を仰ぐ。木々の鬱蒼とした間に月が浮かんでいる。
ボート小屋まで行ってなかったら諦める。そう決断したのに見つからなかったら次は墓地へ向かおうと考えている部分もあった。愚かだ、溜め息を吐いた。もう観念しろと誰かが囁く。非難されなくても止めたいのはやまやまだ。


しばらくして湖に着いた。凪いだ水面が光を跳ね返して綺麗に輝いている。美しくて、誘われているようだ。昔、ここで亡くなった少年も同じことを思ったのだろうか。
頭を振り切って、近くの小屋へ入る。薄暗い。地面を這うように床を調べる。けれど土と小さな虫の死骸が所所散らばっているだけであった。彼等が彷徨った過去に価値はあると信じたい。
膝に付いた汚れを払って再び屋外へ出る。より寒くなった気温に鳥肌が立った。
「おや、マイケル」
林の闇によく知れたカソック姿を発見する。やや離れているのによく通る声だった。
「オーガスト神父!」
咄嗟に駆け寄る。闇に溶けかけていた存在がはっきりしていった。なんとなく、先程までの不安が少し遠のいていく。
「こんな時間にこんなところでどうしたんだい?」
「あの、オーガスト神父こそ何かありましたか?」
マイケルと違い、オーガストが頻繁にここに来るイメージがない。訪れる訳が不明なので尋ねる。
「マイケルがいないのに気付いてねえ、探してたんだよ。あまりここには来ちゃ駄目って言われてたよねえ?」
ふらりと露わになった成り行きに眩暈がする。
「はい」
辛うじて頷く。
背筋に冷や汗が垂れた。自由時間とはいえ禁止されている場所に赴くのは歓迎されることではない。
すみません、と小さく謝る。するとオーガストは厳しい表情でマイケルの肩に手を置いた。逃げたい。咎める態度に、渦巻く畏怖。どくどくと心臓が鼓動を打ち響く。
やがて雲が月を覆う。黒が支配する世界だ。その拍子に、どこかで野良犬が高く鳴いた。
「尻叩きと鞭打ちと反省室と罰掃除、どれがいい?」
ふっと力が抜ける。
「本気にした?」
「……少しだけ」
オーガストは手を退け、眉を寄せて笑った。
からかうのが好きな人だとまったくもって忘れていた。それでも気さくな態度といつもの冗談に多大な感謝をする。
「私自身は気にしないんだけどねえ。でも夜遅くに出歩いたら危ないよ」
不審者は居なくてもうっかり湖へ落ちでもしたらと案じているのだろう。ほのかな優しさが嬉しい。
「で?」
「え?」
「ここにいた理由は何だい?」
こちらを窺う。奥底を覗かれているようで、顔を背けた。
正直に言うべきか悩む。
「落とし物を探してて」
そこまでは差し支えはないと思い定める。
「何を無くしたんだい?」
一緒に探してくれるつもりなのか。彼の問いに首を振った。図書館の鍵を無くしました、などと簡単に告げられない。逆に鍵を持っていた経緯を聞かれて答弁出来るか、否だ。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
それとなく拒絶する。悟られるか。
しかれども無愛想な返事に、そうかい、とオーガストは些か落胆したように呟いただけだった。

オーガストに導かれるままに結局二人は共に寮へ戻り着いた。そろそろ沈黙の時間になろうとしていた故、玄関ホールには誰もいない。穏やかな呼吸が耳に纏わり付く。
「ねえ、マイケル」
静寂を切り裂かれる。見上げ、視線を交わす。
やたら真面目な眼差しと歪んだ唇が不思議な表情を生じさせている。彼らしくない。
「マイケル。心配しなくても、きっとすぐに見つかるさ」
押し黙るとオーガストから、じゃあおやすみ、と別れる。
きっと、なんてあからさまな第三者意識なのに、複雑に絡まった糸が解けた。励まされている。嘆いていた胸にすんなりと入ってくる。妙に楽天的で、なんだか本当にそうなるような予感がしたのだった。


その夜は十二時を過ぎてもとうとう図書館に行くことはなかった。キルトにくるまり、朝を望む。連日通い詰めていた習慣が崩れた瞬間だった。


翌日、朝食を終え移動している最中にばったりとニールと鉢合わせた。廊下の角で、避ける隙がなく、走って去ることも不自然になってしまう。
予想外の事態に対処する術をあれこれ考える。見破られる可能性が高いが用事があって急いでいると嘘でも吐くべきなのだろう。
それにしても待ち伏せでもしていたのかというぐらいタイミングが良すぎる。
「よお、マイケル」
なぜか顰めっ面で挨拶をされる。自意識過剰だが原因はもしかしなくても自分にあるとマイケルは感じた。
「不機嫌だな」
「悩める姿もハンサムだと言え」
ぐりぐりと頭を撫で回され、髪が乱れる。
「なんだよ、いきなり」
後ろめたさに大人しく受け入れたら、一層無遠慮に激しさが増した。沸沸と怒りが込み上げてくる。
マイケルはまだニールには事情を話していない。話すつもりも皆無だ。せっかく鍵を作ってもらったのに現在の状況は骨折り損である。だから知らぬ振りをして自分だけでどうにかしようと計画していた。
悪いと思っている。なのに、やはり鬱陶しいのだ。
満足したのか、やっと解放されたマイケルはみだりに荒らされた鳥の巣を整える。
「お前さん、何で昨日来なかったんだ?」
きたか。窮屈を覚える。
「行かなきゃいけなかったのか?貴方の許可が必要だとは知らなかったんだが」
憎まれ口を叩くつもりはなかったが勝手に言葉を発していた。ただの八つ当たりだ。
「ほんとに可愛いげがないなあ」
呆れるニール。マイケルにしてみれば安売りする可愛いげなどない。
「毎日のように会ってたのに、急に来なくなったら俺じゃなくてもおかしいと思うだろ」
「別に、行きたくなかった訳じゃない」
「はあ?」
「寝不足だから行かなかっただけだ」
「ああ、そういうことか。じゃあ今日は来るだろ?」
当然、肯定を貰えると思っている模様だ。残念ながらもはや決然しているのだが。
「いや、行かない」
「そう言いなさんな。飴やるから」
「子供扱いするな」
断っているにも関わらず珍しくしつこいニールに、マイケルはだんだん恐縮してきた。
ただ純粋に心配している彼を裏切っている。ごめん、と素直に詫びられればどんなに楽か。
「当分はニールの邪魔をしないことにしたんだ」
醜い言い分。でも納得して欲しい。詮索しないで欲しい。都合の良い、勝手だ。傷つけていると自嘲を添えた。
構わずニールは顎に手をやり、ありがたいんだけどなあ、とわざとらしく続ける。
「お前さんが来たくなるようなマジックを使ってやろうか?」
ニールは薄笑いを浮かべた。嫌な雰囲気を察し、反射的に足を引くが、息を吐く暇もない程素早く腕を引き寄せ抱き締められる。すぐに何をされたのか判断出来ず、完全に不意打ちだった。
包まれた途端にタバコとかすかに汗の匂いが香り、服の下からは早鐘の脈が伝わる。
やばい。とにかくやばい。変な刺激に圧倒される。
堪らず必死にもがいた。強い力は離そうとしてくれない。
「に、ニールっ!」
同性愛的だと非難する前に周りを確認する。腕が邪魔で狭い視界だが人の姿も影も無だ。ともあれ、誰かが来ない保証はない。
「大丈夫だ、気にすんな」
「気にするなって、普通気にするだろ……尻叩きされたいのか?」
「ばれなきゃいいんだ、ばれなきゃってのがローウェル家の家訓でな」
宥めるように緩慢な動きで体を触られ、一つ身震いをする。理性が粉微塵に落ちていきそうだ。抵抗しろと自分に命令を送る。しかしこの温もりが心地好いと知ってしまった己もいた。
最初、意味が分からなかった。ニールの行為も、くらくらする程の安らぎも。
それから段々溢れてくるのは甘くて切ない麻薬だ。あえて変換するなら愛しいという単語。もっと、と焦がす思いに焼かれる。嵌まったらどっぷり浸かってしまうだろう。
駄目だ。流されるな。委ねるな。
ふわふわした熱を隠すため、自尊心で背筋を伸ばす。
「種をしかけるのも大変なんだぜ?」
「種なんてなさそうだが?」
どうみても仕掛けた様子はないが、あるっつうの、と頭上から突っこまれる。
「つまり一苦労ってこった」
理解不能で途方に暮れる。うやむやにするとしよう。
「まあ、その……それはいいとして、ニール。な、馴れ馴れしいぞ。離れろよ」
「はいはい」
ようやく束縛から自由を許されたマイケルは三歩、ニールから遠ざかった。
「これのどこが手品なんだ?」
「さてね。それより顔赤いぜ、お前さん」
再びぐしゃっと髪を無秩序にされる。
指摘が図星だ。的確に抉ってくる。不快であり、悔しい。
「じゃあな、またあとで」
「だから行かないって言ってるだろ」
マイケルの反論もなんのその、横をすり抜けて行ってしまう。あまりの急展開に脱帽だ。呼び止めることも出来ない。
「ポケットの中、見てみろよ!」
大股で去っていく背中を追い掛ける精神力もなしにただ呆然と突っ立っていた。
嵐のようだ。マイケルのいろいろな感情を吹き飛ばし、最後にはここにあるものをすっかり攫ってしまった。壊すだけ壊して新しい環境を作っていく。戸惑いながらもいつしか認めていく。
振り回されている。自覚しつつも、それなりに良い気分だ。
しっかりと魔法は掛けてくれたらしいので、とりあえず忘我しない内にポケットを弄り、中を探る。
「あ」
指先に少し懐かしい、固い物が当たった。見なくても何であるか推断可能だ。ずっと探し求めてきた物だから。
どうして。いつから。疑問が脳を駆け巡る。いくら考えても真相は不明だ。
してやられた。さすがニールだ。こそこそとやり遂げるつもりでいたのに頼りになりすぎ。本当に敵わない。奮闘していた自分が馬鹿みたいだ。
「……確かにすごい手品だな」
同性愛的だけど、と不満は飲み込み、無くさぬようしっかりと握る。大切な絆の鍵を、育んできたこれまでを。
授けられた幸運へ、抑えきれぬ興奮を割るために踊り狂う歓喜を捧げる。
そして煌めく陽が射す窓から入ってきた緩やかな風で、熱を持った頬を冷ました。



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