ドキドキとムカムカのカフェオレ


あ、醤油がない。
サビ丸は料理の手をとめ、掛け時計を見る。まだ六時半になったばかりであった。すぐスーパーに行って戻ってくれば一時間ぐらいで料理は完成するだろう。
「善透様、醤油がきれたのでちょっとスーパーまで買いに行ってきますね!」
パソコンに夢中――確認しなくても多分市場の動向チェックだろう――の善透に声を掛けた。彼は胡坐を掻いてディスプレイに向き合っている。部屋着のジャージにパソコンの画面から出る光が眼鏡に反射している。ちょっと、いやかなりマニアックな方々をイメージする姿である。もちろん普段の善透にそんな印象はない。
日本の経済を支えているという噂の人々の如く一心不乱の彼に、同居人がいきなりいなくなって混乱させないよう、そういう心遣いで伝えた。そんなことしなくても心配すらなく、むしろいなくて清々すると主人は考えているのをわかってはいたのだが、サビ丸は頭の隅に追いやった。
「あー……今からか?」
善透は目を離さず問う。
「はい、帰って来たらすぐご飯にしましょう」
サビ丸はいそいそとエプロンを脱ぎ財布を持ったところで、善透が玄関で靴を履こうとしていることに気付いた。
「どこかへ出掛けられるんですか?」
あまり寄り道や外出をしない善透が出掛けるとは珍しいこともある。もちろん危ないのでお供しようと彼の背後に続こうとするが。
「醤油だけなら綿貫ん家に借りればいいだろ。ちょっと用もあるし行ってくる」
だからお前は待ってろ、有無を言わさぬ口調である。善透は靴を履き終わりドアを開ける。
思考が停止し、体が硬直した。その時間約三秒。
戸が閉まる直前、サビ丸は寸でのところで足を挟み必死に止めた。まるで厄介な新聞の勧誘である。
「そんなことしなくてもこのサビなら三分で戻ってきます!カップラーメンもびっくりな早さで!というかあの野郎に用ってなんのことですか!?」
「お前には関係ないだろ」
「サビに話せぬ用ですか!善透様に関係あることはすべてサビに関係あることなのです!」
「お前なぁ、プライバシーって言葉知ってるか?ずっと原始的な生活をしてたお前には馴染みのない言葉だろーが俺が持ってる大事な権利だ。わかったんなら山に帰れ!」
青筋をたてた善透とサビ丸のいがみ合いが始まった。日頃から文句を言い合っているのでこれが何回目か数え切れない。しかし大抵こういう喧嘩で、結果的に折れたことはあるが、善透から折れることはない。
「善透様……御免!」
持ち前の素早さで扉から抜け出て、どこにも行かせないように背後から善透に抱きつき、押さえつける。身動き一つ不可能なその強さはマングースどころか猪を絞め殺す破壊力を持っている。凡人なら死んでいる。コメディだから死なないだけである。
「ふざけ……死ぬだろっ!力抜けええぇぇぇ!」
善透の顔は青白い。サビ丸は、ぱっと腕の力を抜く。その隙に善透は距離を置いた。命令がなかったらサビ丸には離す気は毛頭なかったが、獲物を狙う蛇のように逃がすつもりはないと、一定の間合いを保った。
「申し訳ございません!……ですが善透様はまったくわかってらっしゃいません!」
涙目で体を近づけると縮まった分避けられた。嫌悪感がオーラに出てる。うざい。迷惑。善透は目で訴えている。しかれどもサビ丸は堪えない。日常茶飯事であるがゆえに気にしない。迷惑だと言葉に表さないと理解しないお馬鹿さんだからではなく。多分。
そんな心配をよそに、善透は腕を組んでアパートの手すりに寄りかかり、胡乱臭げにサビ丸と対面する。ミジンコの思考は受け入れられない。そんな台詞が出てきそうな雰囲気である。
「綿貫鷹郎があなたを見る目をご存知ですか!?」
「お前にも二つ付いてる目のことなら何回も見たことあるわ」
眉毛はほぼないけど、と余計な一言が添えられた。でもそんなの関係ない。
「善透様を見るあやつの目……まさしく獲物を狙う鷹の目。いや、恋をする目。いやいや、いたいけな少女を狙う中年親父の目!危険ですぞおお!」
一瞬、上半身裸のこしみのを巻いた変な踊りの伝承者が二人の間に存在した。そのはた迷惑さはサビ丸と大いに共通する。
善透は穴が開くほどサビ丸を見詰めていた。哀れみも含めて。そして大げさな溜め息をこぼした。
「綿貫は友だち。それをいうならよっぽどお前の言動と行動のほうが危険だろ!俺が警察に届け出したら確実に逮捕だぞ」
善透は手首をくっつけて両手を前に出す。見えない銀色の鎖がその手に掛けられている。されどサビ丸の小さな脳みそはもちろん気にしなかった。
「サビにはわかるのです……友達としてではなく、特別な感情を持ってあなたを見ているのを」
真剣な面持ちで善透に詰め寄る。
「だ……だめだこいつ早くなんとかしないと……」
善透はサビ丸の肩を掴み、そのまま引き摺るようにまた家の中へと戻った。そして礼儀正しく善透が正座をしたのをサビ丸は視認し、自身もちゃぶ台を挟んで男二人が向かい合った。
「俺も綿貫も男だろ」
呆れ声で善透は断言した。
「性別は関係ありません!」
理想を掲げる革命家の如く、サビ丸は拳を頭上へ上げる。だが説得力はない。
「関係あるだろ。男に恋するか、普通。そういうやつもいるけど、あー……男にドキドキとかしないだろ」
何があるといわけでもないのに、なぜか善透は照れながら言った。
それに反し、サビ丸の表情は変わらない。むしろ、ひどく暗い顔色に変化した。
「する…と言ったらどうしますか?」
サビ丸は善透の肩にそっと手を乗せた。よく言えば壊れ物を扱うように、悪く言えば痴漢を始める前の被害者の反応を確かめる手つきのように。
「サビは善透様にドキドキします」
緩やかに時間が流れた。触れた手から体温がじわじわと広がっていく。
カチカチと進む時計の針。ノートパソコンが低く唸る。それらしか二人の間に音はないはずなのに、もう一つ心臓の鼓動が響いている錯覚が二人を包む。
肩に置いてあったサビ丸の手がするりと肘の辺りまで移動する。見るからに善透は困惑している。
「サビ丸…お前」
小さく動いた口を目掛けてサビ丸は顔を寄せる。
かすれあう互いの唇。

「せ……セクハラ反対いいいいいぃぃぃっぃぃぃ!!!」
善透はフックを繰り出した。ゴツッと見事なアッパーが決まる。KOのゴングが鳴った。追い詰められていた選手が一発KO勝ち。感想はマジパネェ。
「消毒うぅ!!口があああぁぁ口があああぁぁぁ!」
一目散に洗面所に向かう善透を、鼻血を垂らしっぱなしのサビ丸が虚ろな眼差しで見送った。変質者のような笑みを浮かべ、あと一年は口を洗わないと決心したのであった。



一番初めに書いたものだからかいろいろと気に食わないので書き直したいです。




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